群馬県といえば、現在でも使われている数の数え方にまで影響を及ぼしている絹産業が代表的ですよね!
特に群馬は織物だけではなく、絹糸をはき出す蚕(かいこ)を育てるところから始めているのが特徴です!
そこで、この記事では群馬で養蚕が盛んだった理由、群馬の養蚕の歴史、養蚕農家の年収、養蚕が衰退した理由などを調べてまとめてみました!
群馬で養蚕が盛んだった理由、群馬の養蚕の歴史、養蚕農家の年収、養蚕が衰退した理由
*最新情報は公式HPやSNSをご確認ください。
群馬が養蚕が盛んだったのはなぜ?理由を紹介!
県全域に #利根川 の本・支流が広がり、県域の殆どを流域に収める。
関東平野の端で、県域の2/3は山。や #浅間山、#赤城山、#四阿山、#武尊山 や #至仏山 など #百名山 の名峰がならぶ。https://t.co/4ahoWujlWD
写真は浅間山、県庁前の利根川。 pic.twitter.com/u3W5TIN8Eo
— 47tdfk (@47tdfk1) June 23, 2024
群馬県で養蚕が盛んだった理由は、ずばり群馬が他の産業に向いていない地形だったためです!
群馬は平野が少ないため、田んぼを作って米を育てることがほとんどできません!
また、山を切りひらいて畑を作っても、関東平野のはじっこであるため雷やからっ風で作物がだめになってしまうんです!
令和になった現在では、都心への交通が整備されていることもあり、工場がたくさんありますが…。
そのはしりとして明治時代に群馬から日本の貿易業を支えたのは、富岡製糸場で作られた生糸でした!
では、作物を育てるのに向いていないからと8世紀に始まった養蚕・製糸業はどのような歴史をたどってきたのでしょうか?
群馬の養蚕の歴史は?
群馬県における絹産業の歴史をひもとくと、8世紀の中ごろに新田郡(太田市、みどり市、伊勢崎市)から絹が納められた記録が残っていました!
8世紀の中ごろは奈良時代あたりですね! しかし、養蚕技術が日本に伝わったのはもっと前のことです!
8世紀よりもはるか前、紀元前10~3世紀の弥生時代には古代中国から日本へと養蚕が伝えらえていたそうです♪
群馬においていつから養蚕が始まったかは不明ですが、奈良時代には朝廷への貢物として絹を納めるほどの特産品になっていました!
そこからぐっと時代は下り、江戸時代のなかごろである18世紀に日本全体で生糸の生産量が増えました♪
特に群馬では養蚕・製糸・織物とはじめから最後まで県内で行うようになりました!
江戸時代にはぐんぐんと技術が発展していき、桐生や伊勢崎の織物は有名になっていきます!
質の良い生糸は外国からも求められるようになり、江戸時代の終わりには最大の輸出品となったそうです♪
そして時代は変わり、明治政府は群馬でつちかわれた絹産業の技術に目をつけて富岡製糸場を作ったのです!
富岡製糸場には工女(女工)がたくさんいましたが、それは元・大名や元・武士の一族の女性ばかりでした!
そんなエリートが集められた富岡製糸場の技術はどんどん上がっていき、日本の養蚕・製糸技術は世界一となったそうです♪
その技術は日本だけではなく世界へと広がっていくこととなりました!
養蚕農家の年収は?
養蚕農家の年収について調べてみたところ、くわしい数字があげられている資料は戦前のものしかありませんでした…。
戦後の養蚕農家の家計状況については論文にまとめられていたり、インタビュー記事があったりしました!
そこで分かったのは、現在の養蚕農家は補助金や助成金がなくては赤字になるおそれがあるということでした!
現在は化学繊維の布が量産され大量消費される時代なので、時間も手間もかかり単価の高い絹は敬遠されがちです!
それでも今の養蚕農家の方々は日本で高品質の絹を作り、その絹を使ったよいものを広めていこうとしているんです♪
しかし、明治時代には日本を支えるほどの高い技術を持っていた絹産業はどうして現在こんな状況なのでしょうか?
養蚕が衰退した理由は?
江戸時代に花開き、明治時代には日本を支える一大産業であった養蚕はどうして衰退してしまったのでしょうか?
養蚕が衰退するきっかけになったのは、1929年から1930年代後半まで続いた世界恐慌でした!
世界恐慌はアメリカにおける絹の需要を急激に下げたため、アメリカ市場を最大の輸出先にしていた日本にとって大打撃でした!
そのころには着物を着る人も少なくなり、中国からは安い絹が入ってきて、ナイロン繊維も生まれ…。
世界恐慌をきっかけに始まった絹産業の落ち込みにより、養蚕業もつられて衰えていったのです!
それを国も問題視し、国家主導で絹産業を残そうと多くあった会社をまとめて少なくする方式が取られました!
そして1940年ごろから始まった第二次世界大戦により、絹産業は不要不急のものと考えられるようになります!
そこで絹産業に使われていた工場は軍需工場として使われるようになり、日本国内の絹産業は一気に数を減らしました!
その流れは戦後になっても大きく変わることはなく、現在でも養蚕をはじめとした絹産業は数を減らしたままなのです…。
まとめ
以上、群馬で養蚕が盛んだった理由、群馬の養蚕の歴史、養蚕農家の年収、養蚕が衰退した理由などについてまとめると
・群馬で養蚕が盛んだった理由は、田んぼや畑を作れないkら
・現在は工場の多い群馬に、工場のはしりとして作られたのは富岡製糸場
・群馬で絹が特産品とされた記録は、最も古いもので奈良時代
・弥生時代には日本に養蚕の技術が伝えらえていた
・群馬は養蚕から織物まで県内で行うようになった
・江戸時代に発達した絹産業の技術は、明治になって国を支える輸出品となった
・明治時代に日本の養蚕・製紙技術は世界一になった
・養蚕農家のくわしい年収は不明だが、戦後は貧しい生活をする程度
・現在でも補助金や助成金がないとあやうい状況
・養蚕が衰退した理由は、アメリカで発生した世界恐慌
・需要が減った絹産業は生産量が減り農家・会社ともに数を減らした
・第二次世界大戦がはじまり絹はぜいたく品として避けられた
・戦後も新たな素材や中国製の安い絹への有効な対抗手段は打てていない
とのことでした!
群馬で女性たちを中心に大切に育まれた絹産業は世界に求められて発展し、世界からそっぽを向かれて衰退したんですね…。
少しでも参考になれば幸いです。
では、最後までお読みいただきありがとうございました!
コメント